神風特攻隊を身内に持つ者として
僕の祖父が亡くなって、もう6年が経った。
厳格な祖父であまり遊んでもらった記憶はない。でも家族を大事にしている事は伝わってくるような優しさを持った人だった。
葬式をするにあたって、色々準備をしていく中で祖父の遺品を整理していた。
その中で誰も触れたことのない物が出てきた。祖父のお兄さんの遺品だった。
祖父がお兄さんの事を尊敬し、僕の父の名前にお兄さんの名前の漢字一文字を使ったんだよ、という話は聞いていたが、まさか神風特攻隊で亡くなったとは知らなかった。祖母以外誰も知らなかったらしい。
映画に出てくるような、古ぼけた茶色のトランクケースから出てきたソレらに、僕たち家族は本当にびっくりした。
色々なものが出てきたのだが、手帳をめくると、その当時の予定と自分がやるべきこと(to do listのような)と、出撃情報が端的に書かれていた。
どこどこへ出撃ス。帰還。みたいな。
それが何ページにも、何冊にもわたって書かれていて、僕は単純に飛行機乗りってこんなに出撃して、こんなに還ってこれるもんなんだなと思った。単に祖父兄の腕がよかったのか??わからない。
最初の出撃は祖母が解読してくれたには、どうやら17歳の事だったらしい。
それから亡くなるまで7年間それらはきちんと記されていた。
別紙、死亡告知書には4月29日どこどこで戦死した。と書かれていた。
戦争後期には訓練学校を卒業して間もない、経験の浅い搭乗員を神風に行かせていて、むしろ神風に行かせる為に急ピッチで学生に操縦法を教えていたと。
そこから更に末期になると、経験のあるベテラン搭乗員にも神風の命は下るようになり、祖父兄に回ってきたという事だ。
遺書はすごく達筆で、24歳の字じゃねーなと思った。
昔の言葉、漢字、言い回しで、半分くらいしか理解できなかったが、ネガティブな事は一切書かれていなかった。
お国の事、両親の事、家族の事が順に書かれていた。
辛くなかったのだろうか・・・・・・・
戦争を経験していない僕たちにとって、それはやはり実感のない物で、
どっかの議員さんが軽々しく戦争で北方領土を~~とか言っちゃうんだと。
でも今この平和な日常があるのは、あの時代に戦った人たち、それを支えた人たち、思想や考えが正しいかどうかはわからないけれど、国を真に思う気持ちを持った人たちがいたからだと思う。
この人たちが今を生きる僕たちを見てどう思うのかな。
意外となんも思わんかも?俺たちが望んだ平和を後世に残せて良かったとか。。。
でも少なくとも、暇な時間にスマホゲームをしている僕を祖父兄が見たらどう思うか。それは・・・アカンやろ・・・。私に罰をください。
僕は今趣味、というよりライフスタイルとして海外に沢山出かけていて、その中で価値観はすごく変わった。人生が変わったと言っても過言じゃない。
色んな観光地にも行ったけれど、胸を打つのは負の事象である事が多い。
ホームレスと一緒に野宿してみたり、深夜に子供たちが路上販売をしているような事を手伝ってみたり、そういったことに関心が向くようになった。
パリのエッフェル塔よりポーランドのアウシュビッツに行ってほしい。
そんな思いが生まれたのは、祖父兄の事を知ったからかもしれない。
時代に翻弄された人たちが何の自由もない中で、幸せになりたい、いや、ただ生きたいと望んでいたとするならば、僕たちがこの世界を真っ当に生きることは義務である。
そして忘れてはいけないのは、戦争の悲惨さや、今もなお戦争をしている国があるということ。そういう事に関心を持つこと、想像することは僕にとっては必要な事だと感じている。
当時の方たちが残してくれたこの平和な日々を、一人の人間として担っていきたいと、僕は今強く思う。
本当に誰も得をしないblog ジブン語り編 vol.5
~タイ・バンコク~
2日目・3日目
次の日は早朝から日本で予約していたツアーに参加。
ココナッツ園、水上マーケット、ゾウさんrideのコース。
道中ココナッツ園で途中下車した際、カレーを食べながらオバちゃんと戯れたり、ブラジル人美女と喫煙所トークしたり、ゾウさん乗ったり、ワニさん乗ったりした。
ツアー自体は午前中に終了し、昼からは一人で世界遺産巡り的な、なんか有名なお寺を見に行こうと。
バスに乗ったりトゥクトゥクに乗ったりしながら回った。ちなみにバスはたまたまだったかはわからないが、走ってるバスに飛び乗るスタイルだった。その辺のおっちゃんに聞いてバス停を教えてもらっていたのだが、
おっちゃん「あれや!あのバスやで!」
僕「おっけえ!せんきゅう!」
おっちゃん「・・・ん?はよ行かんかい!いってまうで!」
僕「え???止まらんねや・・!」
ところ変われば自分の常識なんてやっぱり通用しないんだなーと感じた。
ワットなんとかをいっぱい回った後、バックパッカーの聖地と呼ばれているカオサンロードへ。どうゆう意味で聖地??ってかんじだったけど、なるほど人はいっぱいいる。
その辺のお店でヘナタトゥーを肩に入れてもらい、カッコえーやーん!!言うてお金を払った後、バックパックを背負う瞬間、ショルダー部分が完全に肩をこすり、ただの黒いこすった跡が肩に残った。
ヘナタトゥーは入れた後時間が経って、表面がボロボロ落ちるまで触ってはいけないらしい。知らんかったー。店員さん爆笑。それだけが救いや。
タイ旅行に行くにあたって友人と話をしていて、ぜひ行ってほしい所がある!と。
ソイカウボーイ、ゴーゴーバーと言っていた。なんでもただの風俗街で。。。いや風俗街かいっ!!
詳しく聞くと、店内はバーとクラブ(踊る方の)合体版みたいなやつで女の子との交渉次第でお持ち帰りができるのだとか。
実は僕は人と比べるとあまりそういう事に興味がなく、性欲がほぼない。
びっくりされる事も多いがマジである。日本で風俗はもちろん、キャバクラ等も仕事の付き合いでしか行ったことがない。そして壊滅的におもしろくない。そんな人種だ。
だがしかし折角やし!と思い、ごーごーのバーへ行ってみることにした。
ただの社会見学である。下心など有るはずもなかろう!!!!!
入場する前にカウンター的な所でシンハービールを買い入場。
するとタイミングよく?!サービスタイム?だったらしくお立ち台にいたお姉ちゃんたちはおっぱい丸出しだった。なにがサービスタイムやねん。
店内はなかなかのキャパにも関わらずほぼ満席で、通された席は白人の方と相席で、あっ、ども。みたいな感じでお辞儀をしたら、その方完全に勃起していた。
今思えばめちゃめちゃ失礼だったと思うが、ソコを指さして笑ってしまった。
オーマイゴッド!!的なことを言うてたが、その瞬間そのノリで仲良くなれた。
ありがとう勃起。
そこからは何杯飲んだかわからない。その白人の方とめっちゃ飲み、女の子を呼び、酒を驕り、その白人の方が女の子をお持ち帰りした後はその辺にいた大学生風(日本人)の二人組に絡みまた飲む。別段酒が強いわけでも、好きなわけでも無い僕が、ガキの頃以外で唯一、羽目を外した瞬間だった。
深夜3時ホテルで即寝。5時半起床し帰路の為ドンムアン空港へ。
二日酔いがやばく、タクシーの運ちゃんが言う事すべてにOKとしか言えず、めちゃくちゃぼったくられたが気分はそう悪くなかった。
2泊3日、滞在時間わずが40時間弱の弾丸旅行だったが
こんなにも濃厚な40時間があるのかと。
確実に僕の人生が少し変わった40時間だった。
ココガヘンダヨ日本の労働観
日本の労働観は独特である。
スペインのとある場所で知り合った方にこう言われた。
彼が言うに、日本の文化は素晴らしい。四季もありその風情も素敵だ。
人も真面目で悪い人も少ない。
ただ、朝の出勤時、皆下を向き暗い表情をしている。満員電車に揺られて、まるで地獄にでも連れて行かれるの?そんなに仕事がつらいのかい?なにが楽しくて生きてるの?
なかなかの言いようである。が、僕も昔その部分には少し悩んだこともある。
過労で人が死ぬ国。確かにそんな国は滅多にないだろう。
ここからは私感による、日本の労働観語り。
・休めない
シンプルにこれ。
たまには海外旅行でもいきたいよねー。って思っても本当に行ける人がどれだけいるだろうか?大型連休等を利用して間を有給で・・・みたいな。
僕が務めていた会社で、社長の娘さんがよく海外へ行っていた。
有給休暇を使って、もちろん既定の日数内で。一応ルールは守っている。
フランスへ1週間行かれたそうで、お土産も買ってきてくれた。
が、周りの人たちは冷ややか、、どころかドン引きだ。
1週間も休んでできる仕事なんかお前やなくてもできるがなー。ほなお前いらんなって言われてもしゃあないでな。社長の娘やからそんなん言われへんだけで。
わしらがやったら干されるわ。当てつけみたいに土産なんか買ってきてアホちゃうか。
まぁこれを直接言う人はいないのだけれど。。。
これが我々の現状だったし、そんな空気感だった。
日本社会全体がそうだとは思わないけれど、似た部分があるのではないかと。
[休む]が難しいというのは、何も物理的に難しいだけではなく、むしろ精神的に難しいのだと思う。
有給を使うと上司に睨まれるのではないか。表面では何も言わなくても陰で悪口を言われるのでは。イジメのきっかけになったり、出世にも響くかも。
そう思うと、もはや休む方がめんどくせぇ。我慢しよ・・・と。
・労働の価値観
価値観が違うのだから比較にならない、と思う人もいるかもしれないが、まず同じ人間である。
スペインで出会ったマルコは、人生を楽しみたい!僕は結婚もして子供もいるけど、借金してでも旅行がしたい。家族とこの最高な一時を感じたいね!みたいな。
海外ではタイムカードに残業時間が分単位で記録されていて、蓄積された分を使用する事で、ある程度好きな時間に退社できる会社もあるそうだ。
※例
定時17時-蓄積残業時間1時間=退社16時
かなり大きな問題だと思うが、働いている人たち皆が、価値観、意識が変わらなければ絶対変わらないと思う。
過労死、過労自殺、こんなことが起こっては絶対いけないと思うし、単純に働くことで幸せになりたい、楽しみたい、と思う事がいけない訳がない。
それが可能な国に、なってほしいし、次世代の為にもそうしていけたらと思う。
ただ、ひとつ考えなければいけないのは、現状を自分たちがチョイスしているという事。選んだうえで今がある。
とすれば、やはり私たちは元々自由なのである。
本当に誰も得をしないblog ジブン語り編 vol.4
本当に誰も得をしないblog ジブン語り編 vol.3
ワーキングホリデーについて話し合ったことがあった。
彼女は海外に行きたいと常々言っていて、実は僕もとっても行きたくて、そうゆう話をするときはめちゃめちゃ盛り上がった。二人で旅行も行ったし、彼女は友達ともよく行っていた。
昔から彼女は日本の堅苦しいところ(彼女はそう思っている)が嫌いで、なぜ日本にいるのかがわからないと。彼女もすごく葛藤があったらしいのだが、僕の言葉で背中を押されたらしい。この言葉が無ければ僕らはどうなったのだろうか。
僕「そんな行きたいんやったらほんまに一回いったら?」
僕としては結婚を見据えた相手で、そういったモヤモヤを解消してほしいし、やりたいことを我慢させたくないと思った。それが終わったら二人で話し合ってその後について決めていければと思っていた。
この考えはとんでもなく甘かった。
それを聞いた彼女は、進路がオールグリーンになったアムロばりに飛び出していった。
それからはワーホリに向けて準備もあり、彼女は実家に戻った。二人で過ごす時間も減っていった。
旅立つ1週間前くらいに彼女に別れたいという話をされた。私はそんなに器用じゃないからふたつの事を同時にできないみたいな。
そんなことになるために言ったんじゃないんだよね~。と思い、色々話し合いグレーな感じで幕を閉じた。
カップルの片割れがワーホリ(海外)に行くに際して、一つアドバイスがある。
絶対にグレーな感じで行ってはいけない。絶対ムリだから。僕も後々体験するが、環境が変わると人生が変わるので。
関係を続けていくには二人が全力で「I LOVE YOU!」と言えてようやく20%くらいだと思う。
それから彼女が旅立つまでの日々はボヤっとしていた。当日関空まで一緒に行ったが車内の会話は覚えていない。
検査場に向かう彼女を呼び止めキスをした。なんだか愛のこもっていないキスだった。
いってらっしゃい。
いってきます!
その笑顔だけは今でも忘れられない。
本当に誰も得をしないblog ジブン語り編 vol.2
辞めまーすの後、直ぐに次の仕事が決まった。
かばん工場というより普通のお家の中に作業スペースを作ったような会社だった。
受けている仕事の中で、吉田カバンさんや土屋カバンさんもあった。made in Japanブランドだ。
社長と話をしている中で、この業界は不景気だ、うちも例外じゃない等、金銭的にネガティブな発言が多く、実際お給料は前の会社より少なかった。
20代中頃の男の子がたくさんいた。彼らはファッションが好き、かばんが好き、物つくりが好き等明確に目的意識がある人たちだった。お金の事を考えるとこんな所で働いていられない、結婚なんて今は諦めていますと。
それってどうなん?今まで考えまいとしていたことをじわりじわりと考えるようになってしまった。
職人の世界で、他の業種でも似たような境遇にある方は沢山いると思うし、ましてや自分が望んでその環境にいるんだろ?その仕事がしたいんだろ?じゃあ下積みが不遇なのはしょうがないじゃないか!成長して上に上がってから楽しい思いをしろよと。
簡単に言ってくれる。僕たちにとっては吉野家の牛丼が高級品で、一日の食費を500円で抑える為に自炊し、お昼弁当を作って持っていく。自販機でジュースを買うのもためらい、買い物は常に値段をみて、欲しいもの(食べたいもの)ではなく安いものをチョイスする。TVで紹介されている行列のできるお店!みたいなのに1食1000円のかき氷とかを見るとまじで死ねよと思ってしまう。
お金が使えないから気分は落ち込み、友達との飲み会も参加しずらい。何のために生きてるのか、何のためにこの仕事をしてるのかわからなくなる。
それでもそう言うことが甘えだとみんな分かっている。自分が悪いんだと。
また仕事をやめちった。金銭面で最初面接で言っていた条件とかなり食い違う部分はあったものの、退職した理由はほぼ自己都合。2か月も務めなかった。やめたとて目標は変わらず、職人になりたいと思っていたが、ここを辞めたら、一度別の職種に就こうと思っていた。
彼女とも相談をし、僕は落ち着いたら結婚も視野にいれていきたいと思っていた。
彼女はあまりそういったことに関心が薄く、少し日本人っぽくない毛並みの考え方だったので、漠然と海外で働きたいなーということを口にしていた。
僕はヘルパーの資格を取り、ヘルパーになった。もちろん社員で。身体に障害のある方をメインとした所で、本当に大変だった。最初の3か月は何度心が折れそうになったかわからない。
お給料は前職の1.5倍~2倍になった。こんなに貰っても何に使っていいか最初わからなかったが、彼女と居酒屋へ飲みに行った。お金を気にせず飲み食いし、お会計が1万円くらいだったけど普通に払えた。豪遊したカイジが冷静になって考えても後悔しないパターンのやつ!と思った。お金って偉大。幸せや。
ヘルパー業もようやく慣れてきたなと思っていた春、彼女がワーキングホリデーでオーストラリアへ行くと伝えられた。
僕30歳、彼女29歳の時の出来事だ。
本当に誰も得をしないblog ジブン語り編
20代だった僕はいろいろ引っ掛かりながら、でもきちんとした目標をもって日々社会と戦っていた。
かばんや小物を作る会社で製造を担当していた僕は、技術を上げて高度なものを作りたい、しまいには独立したいという夢をもっていた。
現実は厳しく日本の革産業、かばん業は衰退の一途をたどり、職人の後継者も皆無だった。←少なくとも僕の会社は。
そんな状況下では経営も厳しくお給料も少ない。その道25年の職人さんのお給料が額面22万円(勿論ボーナスも無)と聞いたときは、なんも言えねぇ・・・だった。
担当部署は会社のお荷物。そんな風潮まであり、ただそれでも部署は一丸となって努力した。そこだけは今でもいい経験になったと思っている。
日々葛藤、努力、ストレスの中で、僕には幸いにも彼女がいた。
背の小さな活発な女の子だった。
僕の癒し、、たまに活発すぎて癒しじゃない、、でもとにかくとても大切な彼女だった。
会社を辞めたのは6年目の冬。ストレスやいじめで辞めたわけではない。
少しづつ技術が上がってきた僕は次のステップへいきたいと思ったからだ。
課長に話をした時に背中を押してもらえたことが決め手になった。
部署のみんなは本当に応援してくれた。やってやるとおもっていた。
移った会社はこじんまりとした商店街のなかにあった。
規模も小さく若い人がおおかった。(比較的に)
扱っている革はイタリアから仕入れたやつやで~と社長が言っていた。
お洒落な財布、かばん、なんかええやんと思った。が、事件が起こる。
新人の教育係は社長のお母さん(推定70歳)とそのお友達風の半職人おばさん(推定65歳)
そしてちゃんとした職人のおじいさん(推定65歳)だった。
キャリアの浅い人たちがワンフロアーに集められてそこに教育係の方々と仕事をしていた。
なるほど。僕は最初から「カマ」した。
正直に言うとここで一番になるんだ、どころか踏み台じゃくらいに考えていた僕は猛烈に仕事をした。
香川真司が最初が大事って言っていたのを思い出していた。
その姿、所作、やる気満々感が鼻に触ったのであろう、おばさんたちのいじめが始まった。
だがひるまない。前の会社でさんざんそんな目には合っている。急性胃腸炎になり救急搬送されかけた所モドシながらも会社に行った僕からしたらババアのいやがらせなんてへでもねぇ。効くかボケ。
でもそれが悪かった。同じフロアーで働いていた、まじで見習いからやってるまだ一年たっていない方がいた。40代男性。この人ももちろんいじめられていたのだが、よりひどくなってしまった。
お世辞にも器量が良いとは言えない、また、咎められるとおどおどしてしまう(割と僕もそのタイプだが鍛えられて治った)方で格好の餌食になっていた。
話してみると普通に気の優しい良いひとだった。要領がわるいから・・・って言ってた。
そして事件当日、いつものように40代男性が嫌がらせを受けている。ここがダメだ、もっときれいにやれとか。しょーもな、てめーも大したことねーだろとか思っていたら、40代男性が言い返した!
「うるせー!!死んでやるー!!!」
はい????
僕たちのフロアーは二階で、ベランダの扉を開け、40代男性はもう飛び出していた。
みんなポカーンとみていた。
いやアカンがな!!!
とっさにベランダに飛び出て、飛び降りようとしている40代男性の腰あたりを辛うじてキャッチできた。体半分宙に浮いているような感じだ。
うわー!とか言うてるおっさんを取り合えず引きずりおろし、事なきを得た。体中びっくりするくらい力が入っていた。
夕方18時の商店街の中。こんなおったん?と思うくらい人が集まっていた。警察もきた。
社長とお母さん、40代男性が警察と話をし、僕らは普通に仕事。
右手小指がちょっと外を向いていることに気づいたが仕事をした。
ぽつりといつも全く無駄話をしないおじいさん職人が、これ二回目なんだよね・・・と。
次の日の朝、僕は社長に電話で、辞めまーすと言った。